12 Aug
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私たち「ミラスタ!」が目指しているものは、インクルーシブ公園の実現です。でも、インクルーシブ公園って、実のところ何でしょうか。自分たちで規約を作り、インクルーシブ公園について定義までしているのに、何でしょうかとはどういうこと、と言われそうですが、インクルーシブとは何なのかという問題は、実のところとても難しいのです。インクルーシブは「包容」とか「包摂」と訳されますが、誰が誰に(あるいは何に)包容されるのか、分かったようで分かりません。この言葉の始まりとなったものの一つ、「障害者の権利に関する条約」ではインクルーシブ社会実現が基本理念の一つとされていますが、そのくせインクルーシブの定義はありません。もしかすると、分かったようでいて、ほとんどの人が分かっていないのがインクルーシブなのかも知れない、そう思ったりします。これは、ジェンダーととてもよく似ています。ジェンダーという言葉は、今では多くの人が知っていますが、さて実際はどんな意味と問われれば、男と女の差別に関する何か、くらいの理解がほとんどではないでしょうか。 


誰「が」誰「に」インクルーシブされるのでしょう。私たちの活動から考えれば、障害のある人「が」というのは分かります。少なくとも今の活動から考えればそうです。でも、誰「に」なのでしょう。社会全体というのはぼんやりしすぎています。結論から言うと、健常者社会「に」という想定になっていないだろうか、というのが私の理解です。文部科学省の言葉を見ると「障害のある者が教育制度一般から排除されないこと」がインクルーシブ教育となっていますが、そもそも教育制度一般はすべての子どもを「包容」しているでしょうか。同様に、この社会は、前提としてすべての人を「包容」するところから出発しているでしょうか。そうではなく、健常者の社会があって、その中に障害者を「包み込む」ことがインクルーシブの実際だ、という隠れた了解がないでしょうか。 


繰り返しますが、インクルーシブする側は「誰」なのでしょう。それが、すべての人であるならば、障害のある人を「包容」する必要はありません。何故なら、もうそこに入っているのですから。でも、それが健常者であるならば、あくまで健常者の社会が前提で、そこに「包容」してあげるということになります。それもおかしい。何故なら健常者の社会が「誰」かを「包容」するのに相応しいかどうかなんて、どこにも保障なんかないですから。 


少し理屈っぽくなりましたが、インクルーシブ社会の実現、という言葉の背景には、健常者社会が社会の当たり前なのだ、という暗黙の了解が忍び込んでくる危険がある、ということです。そうではありません。社会とは、今生きているすべての人を前提としたものが社会です。あるがままの全員が社会。けれど、そこに障害のあるなしで線を引き、健常者と呼ばれる人の集まりが社会であるかのように振る舞ってきたのがこれまでの歴史ではないか、と思うのです。インクルーシブする側は、本来あるべき社会です。健常(と今は呼ばれる)者も、インクルーシブされる側の一つに過ぎない、と私は考えます。でもこれは、あくまで私が考えるインクルーシブに過ぎません。 


 前回の寄稿文で紹介した彼は、高等部卒業後ほどなく、一足先にもう会えない場所へいってしまいました。だから、もう会うことはできません。でも、もし今、顔を合わせたら何と言うでしょうか。「先生、あのこと、まだ考えてるん?」と愛嬌のある表情で私に問うでしょうか。私は「そうやねん、まだ考えてるんや」としか言えません。凡人の私は考え続けることしかできません。けれど、考え続けることは、こんな私にもできるのです。いつの日か、あちらで会ったときに答えられるように。


ミラスタ!事務局長 西村猛

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