30 Mar
30Mar

 前回に続いて、もう少し言葉の問題について考えてみます。ですがその前に、一つ補足をします。前回の最後の一文は「コラム表題の「ことば」と文章冒頭の「言葉」の違いは、何かの差異を生んだでしょうか」というものでしたが、コラムを読まれた方は「何のこと?」と思われたでしょうね。下書きの段階では、ファイルに題を付けて、文章冒頭にも題を付けています。その二つで「ことば」と「言葉」を使い分けていたという訳です。私の不手際から、文章冒頭の題が抜けてしまい意味をなさない締め括りになってしまいました。申し訳ありません。意図としては、ひらがなの「ことば」と漢字の「言葉」は、どのような受け取りの違いを生みましたか、というものだったのです。


 さて、言葉の問題に戻ります。先日、ミラスタ!の役員会をしているときに、「障害」表記の話題になりました。その場にいた4人のメンバーのうち、2人はどちらでも良い、2人は「障害」で良い、という意見でした。けれど、福祉の世界では「障がい」を使う団体も一定数あることから、ミラスタ!のチラシなどは「障がい」という表記になっています。前回も触れたように、この問題に関しては両方の考え方があります。いわゆる当事者団体と呼ばれるものの中でも「障がい」「障害」両方の立場があることは既に触れたところです。そのそれぞれに理由があり、それこそ平等の観点から言えばどちらも否定するものではありません。一昨年度、NHKが行った調査を見ると(2019年11月、放送用語委員会調査)、世論調査で、「障害」の方が「障がい」よりやや抵抗感がないと出ています(言葉として抵抗感のない割合が「障害」が80%、「障がい」が63%)。また障害者団体を対象にした調査(政府の障害者関係会議に委員を出している団体、総数13)では、「障害」が良いが5、「障がい」が2、「決めていない」が7となっています。繰り返しますが、どちらの表記が良いかということについて、決定的な理由はまだ存在しているようには見えません。 このことについて、2つの視点を提示します。


 まず1つ目は、本人たちがどう思っているのか、ということです。前回触れたように、表記を「障がい」に変更した行政は、当事者団体の意見を反映させて、という理由でした。この当事者とは一体誰のことでしょうか。私の回りには当然のことながら障害のある子がたくさんいますが、彼らの意見は反映されているのでしょうか。言葉による意思表示が難しかったり、或いは知的に遅れがあったりすれば、自分の本心を述べることは困難です。その場合は養育者(大半は保護者だと思います)が意見を述べるのだと思いますが、それは“本人”の本心でしょうか。親が大変な思いをして育てていることは、全く否定しません。育ててきた長い時間の中で、子どものことを一番よく分かっているという気持ちも分かるし、また事実そうだとも思います。それでも人は自分以外の人になることは出来ません。他者のことを100%分かりきることなど不可能なのです。臨床心理の世界では、誰かのことを「分かった」というのを厳しく戒められます。それは、相手の心にズカズカ入り込むことで、人格を傷つける行為だからです。あくまで人はそれぞれ別であって、その人を完全に理解することは誰であっても不可能です。でもだからこそ、「あなたを理解したい、少しでも近づきたい」と思うことで相手に寄り添うことが出来るし、その思いが通じることで相手も一歩近づいてくれるのだと思います。けれども、自分以外の人の気持ちを、こうだ、と言い切ることが出来るでしょうか。本人はどう思っているのでしょうね。


 もう1つは障害をどんなものとして考えるかです。病気になった人のことを「病人」と呼びます。「病」という文字が持つイメージも良いものではありません。けれど「びょう人」と表記した方が良いという話は聞きません。収入が少なく生活に苦しんでいる人を「貧困」と呼びます。「貧」という文字も、決して良い印象の文字だとは言えません。けれど「ひん困」と表記はしませんね。なのにどうして「障害」の「害」の字には表記の問題が生じるのでしょうか。ある人のことを「病人」と呼んだとしても、それは「その人そのもの」=「病人」とは大抵の場合考えません。それは、病気になっているその時だけの状態で、病気が治れば「病人」ではなくなるからでしょうか。だから「病」の字に否定的な意味があったとしても、それは「病気」に向けられているのであって、その人に向けられているのではないということです。同様に、ある人を「貧困」と呼んだとしても、その人の全体を表すものではなく、「貧」の字は「貧困」という状態に向けられているのだから、その文字にネガティブなイメージがあったとしても、それは人に向けられてはいないから構わないのだという考え方もあると思います(実際は貧困には大きな問題がありますが、今は別のテーマなので触れません)。 そうなると、「害」の否定的な意味が良くないと言うことの背景には、「その人そのもの」=「障害」のある人、という理解の図式が存在するとは言えないでしょうか。仮に、「障害」とは障害という状態に向けられているのであって、その人に向けられているのではないのだとしたら、「害」に否定的なイメージがあったとしても、それを排除する理由は見当たらない気が(私は)します。その人(例えば私)に起きる状態に否定的な言葉はたくさんあります。病気、貧困だけでなく、不合格、弱気、失敗、等々。けれどそれらは、私の人格そのものとイコールではなく、ある時の状態を表しているだけだから、私の「外」に追い返すことが出来るのです。でも、「害」の悪いイメージを取り除かなければならないとしたら、それは、その人に付随するものだから、ずっとその人の中にあり続けるのだ、という考えがあるような気がするのです。


 これは、現在世界的に主流となっている障害観とは方向が違うものです。障害は医学モデルから社会モデルへと移りつつあります。つまり、その人が固有に持っているものではなく、社会との関係で生じるものだという考えです。それなら、「障害」とはその人そのものではありません。社会との関係で現れたり現れなかったりするものです。こんな風に考えてくると、「害」の持つ悪いイメージを取り除く必要があるのは、「障害」がその人の内側にあるもの、という理解があるからではないのか、という疑問も起きるのです。 もちろん、現実社会はこのように理論だけで話は進みません。障害を社会との関連で考えると言っても、なかなか現実が追いついていないというのも事実です。病気は治ることが多いけれど、障害は治らないじゃないか、社会に原因があるというのなら、社会が変われば障害は治るのか、と問われれば答えに窮するでしょう。それに、「害」の文字に不快感を持つ人がいる以上、それを尊重するのは当然です。ただ同様に、「障がい」にも不快感を持つ人がいる、ということも事実です。先の調査をしたNHKも、政府の関係機関も、障害者団体の連絡会等も、表記の問題については継続して検討するべき問題であるとしています。私たちミラスタ!では、こうした経緯を踏まえて、当面は「障害」と「障がい」を活動の内容、記載する文面に応じて使い分けをすることとします。当然、会員すべての意見が反映される事柄ですから、意見交換をして、よりよい答えを探す努力を続けるつもりです。本人たちは心の中でどう思っているのでしょう。障害・障がいとは、そもそも何でしょうか。


事務局長  西村猛

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