09 Mar
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 ミラスタ!では「障害」の文字表記をしています。この言葉については「障がい」という表記や「障碍」という表記もあります。

 多くの団体、或いは福祉製品を扱う企業などもホームページその他で各自の見解を出していますが、内閣府のホームページには、「がい」の字に対する取扱いを改めている地方公共団体が紹介されています。それによれば、表記を変更している地方公共団体では「障がい」と「がい」をひらがなにしているところがほとんどです。 言うまでもなく、「害」に「さまたげとなる」「わざわい」と言ったよくない意味があるためですが、「碍」の字は常用漢字ではないため使いづらく、それもあって、ひらがな表記の「がい」にしているところがほとんどのようです。表記を変更した地方公共団体は、当事者団体の要望を受けて、というところが多いようですが、その当事者団体自身も「障がい」と「障害」で揺れているところがあります。ひらがな表記の団体は、やはり「害」の持つ負のイメージを避けるためとしていますが、字を変えるだけでは差別や偏見はなくならない、とそのまま漢字表現を採る団体もあります。

 ミラスタ!でも、規約やチラシを作るにあたって検討しました。表記自体を変更しても、当初「害」という字を宛てた意味合い自体が変わるわけではないという判断から、今の時点では「障害」と表記しています。 当事者の気持ちは尊重されるべきですから、「障がい」「障害」両方の表記があっても良いのでしょうが、この問題を考える時にいつも思うことがあります。使う言葉そのものが問題なのか、使い方が問題なのかと言うことです。

 少し話が飛躍してしまうかも知れませんが、私がとても気になることに触れます。 「みんな~してる」という言葉の「みんな」に強く拒絶感を示す人がいます。例えば「みんな修学旅行は楽しみにしてる」という発言に対して「みんなじゃない!楽しくない人もいる!」と言った具合です。集団生活が苦手で、かつての修学旅行によくない記憶があれば、確かにそうだと思います。全員が必ずそうだという前提で話を進めることは、そうではない人にとって、自分の人格を否定されたような気持ちになるでしょう。けれど、修学旅行を楽しみにしている人が多いことは(おそらく)事実で、そうした人同士が「みんな楽しみにしてる」と会話することに何か問題があるでしょうか。旅行を楽しみにしている友人同士で会話する時は「みんな」を多数の意味で使い、例えばクラス全体に向けて話すときには「みんな」は旅行が苦手な人も含むから避ける、とは考えられないでしょうか。

 言葉は、誰に、どこで、どんな内容の話に使うのかによって、持つ意味を変えるものだと思います。「みんな」が100%を意味する場もあれば、大部分を意味する場もあるでしょう。それを、どんな場でも100%を表す場合しか使ってはいけないのだとしたら、人の会話はおそろしく窮屈なものになるでしょう。まして他者同士の会話に入り込んで「みんなじゃない」と口を挟むことは、自分に対して不利益が向けられていない限り、価値の押しつけにもなり得ます。 こうした言葉は「みんな」だけではありません。「いつでも」「どこでも」と言った言葉にも考えられることです。

 私の近くには、よく「それは正論だ」という人がいます。多分、「決まりから言うと正しいのだろうが実社会には色んな人がいるから押しつけるな」と言った意味なのでしょう。要するに非難ですね。でもそれなら正々堂々と自分の考えを言って、相手と比べたら良いのだと思います。「正論」という言葉の中に、有無を言わさず否定するというニュアンスを感じます。「害」の字をどう表記するかは簡単なことではなく、みんなで考え続けなければならない問題です。けれど「害」の漢字を使うから差別意識があり、「がい」とひらがな表記さえしていけば差別はないと判断することはとても怖いことです。外見が隠れ蓑になって、本質的な差別意識が見逃されてしまうことが一番問題だし、広い意味での言葉狩りになれば、言葉を豊かに使うことができなくなってしまうのでは、と危惧します。 

 さて、コラム表題の「ことば」と文章冒頭の「言葉」の違いは、何かの差異を生んだでしょうか。
                       

                       事務局長  西村猛

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